[小説]長い冬が明けるとき、僕は知らない扉を静かに開いた。(1)

小説
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また来てしまった。

何か嫌なことがあるとここにただりついてしまう。

思い入れがあるわけでもないのに、気づいたらいつもこの場所に降り立っているのだ。

高円寺--。

人間のにおいがここぞとばかりに染みついた場所。

下町情緒とはまた違う、けど、人と人とが混ざり合うこの空間は、いつだって僕にそっと寄り添ってくれる。

「いらっしゃい。」

いつもどおりだ。

やる気のない、ぼそっとした声。

いつからかわからないけど、行きつけになってた焼き鳥屋さん。僕が唯一、「行きつけ」と呼べる店だ。

「なんだい、うかない顔してんな。…っていつもか。」

そういって少しだけ笑って、すぐに職人の顔つきになる。僕の回答なんて気にしない。この大将はいつだって、相手のことは気にしない、だから僕もここが好きなんだろうけど。

何も気を使わなくていい空間だ。

「いやー、仕事大変でね。なんのために働いてるか分からなくなっちゃうんですよ。」

僕がそういうと、大将の顔つきが少し険しくなる。

こだわりだと語っていた愛知県産の名古屋コーチンを手際よく串にさしていたが、その手も気づいたら止まっていた。

…どれくらい沈黙が続いただろう。

いつもは気にならない沈黙が、今日のそれは、なんだか居心地が悪く、すごく長く感じた。

「…あたりめぇだろ。大変だよ。」

ぼそっと、小さな声が聞こえた。 最初は気づかないくらいの、鳥のさえずりよりも小さく、気をとがらせていなければ聞き流してしまいそうな声。

でも確かにその声の主は、大将だった。

「え…すいません。」

反射的に謝る自分がいた。

そして、大将は、今度はしっかりと僕の目を見てこう言った。

「大変だよ。仕事ってのは。」

分かってる。

分かってはいたけど、この大将に言われると説得力が違う。

「でもな…、だから飽きずに、働けんだよ。だから、楽しいんだよ。俺はそう思うぜ。」

妙に納得してしまった。

確かにそうかもしれない。

大変なのは承知の上、だけど、その中に楽しさがあるのも事実だ。

誰かに認められたい、承認欲求がある、自分がここに存在している意味…

そのすべてを満たしてくれるのが「仕事」なのかもしれない。

いろんな人を見て、いろんな人の愚痴を聞いてきた大将だからこそ、自分の心に響いた。

「だけどなぁ…ただ、一つ。仕事をしろよ。作業はするな。」

大将はそう言うと、また職人の顔つきに戻っていた。

その時はまだ、分かっていなかった。 この言葉の意味と、大切さをーー。 (続く)

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